人間が成長する過程で、この世に生まれたときは先入観や偏見がないまっさらな状態で、そこから成長していく中で、”教育”から得られる情報であったり、”経験”からの情報であったり、それらによって固定観念が形成され、先入観や偏見が生れていきます。
人間が成長する過程の最初の段階で、特に固定観念が生まれやすいのは、初めての体験から得られる情報はとても強烈に残るため、その経験に偏りがある場合、経験から得られる情報が偏った形として記憶に残ってしまうからです。
幼少期の頃にまだ思想が固まる前に体験する初めての体験がいわゆる原体験です。そして原体験は、その後の思想形成に大きな影響を与える事となります。
初めて見た景色の感動は二回目にはなく、同じ対象から得られる感動は回数を重ねるごとに徐々に薄れてしまうのと同じです。原体験はとても鮮烈に記憶に残るものです。
また、誰かからの教育による情報から形成される思想に関しても、固定観念が生まれやすいものです。
そして大人になるにつれ、教育など与えられるままに受けて来た情報の範囲を超え、自分の好奇心によって広範囲に情報を集められる段階まで成長してくると、今度は逆に偏見を壊していく作業をするようになって来ます。
まっさらな状態で生まれ、多くの固定観念を増やしながら育ち、今度は逆に固定観念を壊す作業をする。なんだか変な話しですね。でもこれは事実です。
子供たちが健全な思考を成長させる過程で必要なもの、その最もたいせつなひとつとして、大人による情報の管理があると考えます。
それぞれの子供たちの成長の過程に合わせて、どのタイミングでどの情報を、手の届きやすいところに置いておくべきか。また悪い影響のある不必要な情報にいかに触れさせないか。
それはありとあらゆる情報が氾濫した、インターネットが普及した現代社会において、とても重要なことだと考えています。
インターネットが普及した現代では、子供たちは知りたいと思った情報にいつでもアクセスする事が可能です。また知りたくない情報にも常に触れやすい状況にあります。
知りたい情報にいつでもアクセスできるという事は、決して良い側面ばかりではありません。なぜなら好奇心の範囲は様々だからです。ありとあらゆる情報にアクセス出来てしまうというのは本当に良い事なのでしょうか。
すべての人間は、知識としての情報と、経験としての情報を繰り返し吸収しながら、自身の思想を形成していくものであると考えます。
すべての子供の成長の過程に合わせて、適切なタイミングで適切な情報を、大人たちは配置する必要があるのではないでしょうか。
なぜなら、インターネットからは年齢に関係なく、ありとあらゆる情報を得ることが出来てしまうからに他なりません。
自発的に子供が欲する情報が、当然すべて良いわけではなく、そこには興味の偏りが生じます。その偏りの中に生じる間違った偏りを特に問題としてとらえています。
たとえ、不適切な内容を子供の目に触れさせないためのフィルタリングの精度が上がったとしても、フィルタリングに掛からないけれど与えるべきでない情報もたくさんあると考えています。
不可逆的な事だとは思いますが、ぼくが子供のころであれば21:00になったらテレビを観せないだとか、この番組は観せないだとか、とても簡単な方法で大人が子供に与えるべき情報を選んで吸収させることができていたと思います。
インターネットの普及により、情報が氾濫した現在の社会では、情報を管理しなければならない義務は、親が管理可能な範囲をとうに超えてしまっているのではないでしょうか。
”今までは親の意思の中でしか見い出せなかった好奇心がその範囲を超えた“
それは決して悪い事だけではないと思うのですが、情報を管理する責任を担う義務が、“親からすべての大人へとシフトした”と考えています。
つまり、情報を管理する義務を担う責任が、すべての大人にあるという自覚を持つべきだと。
“自我とは、自分が蓄積した情報を処理した結果”
自我を形成する過程において、それぞれの成長の過程に合わせた、適切な情報を適切な場所に置く事は、最もたいせつであると考えています。
情報の管理のあり方を、もう一度一緒に考えてみませんか。